J.S. バッハ「インヴェンション第1番」解説

お問い合わせ

J.S. バッハ「インヴェンション第1番」解説と当時の演奏法
ギターアレンジと装飾音を中心に
Invention 1

装飾音:インヴェンション第1番での装飾法

現在までに至るバッハの演奏法についてバドゥーラ=スコダは、1920年頃までバッハは主にロマン派音楽のスタイルで演奏されていたが、アーノルド・ドルメッチとワンダ・ランドフスカの登場によって変わり、歴史的な考証をふまえた演奏を求めるようになり、現在では時代の表現に忠実(オーセンティック)な演奏が主流となっていると述べています。(※45)しかし、バドゥーラ=スコダは「バッハ作品の演奏法-とりわけ装飾法-に関し、現代では意見の一致がほとんど見られない」(※46)ことを指摘し、理由として、「バッハ当時から今日まで一貫して伝承された演奏習慣がないことと、バッハ本人がどのように演奏し、そして自作をどのように演奏してほしかったかに関する当時の人々の詳細な証言が存在しないため」(※47)と述べています。

それでは、装飾音について今までのことをふまえ、インヴェンション第1番をみていきます。まず、第1、2小節目についているトリル記号は、「ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハのためのクラヴィーア小曲集」の中のバッハ直筆の装飾音表によれば上方隣接音から開始されるトリルですが、主音開始のプラルトリラーとする意見もあります。これはカール・フィリップ・エマヌエルの「プラルトリラーは、先行音符をその次の音符にレガートするもの」(※48)、「プラルトリラーは下降2度の後〔原著では『前』〕にしか用いられない」(※49)を根拠にしていると思われます。バドゥーラ=スコダは、レガートのスラーが書かれていなくてもレガートで奏されることについて「バッハは鍵盤楽器の作品にはスラーをほとんど記入しておらず、演奏者は当時の対位法の規則に従ってこれを補っていました。」(※50)と述べています。また、第1小節目のトリル記号は導音、第2小節目のトリル記号はV7の和音の第7音になります。これに上方隣接音から開始するトリルをつけるとそれぞれの音の性格が弱まってしまうと思います。村上もこの個所について「トリルが導音に付されているので、上隣音からはじめれば前後に出てくる主音とあわせて4回(主要音はじまりであれば3回)導音が打ち鳴らされることで、導音の性格が弱まるのはたしかです。」(※51)と述べています。このような理由から、今回は主音開始のプラルトリラーで奏したいと思います。また、野平一郎はこの装飾音を上方隣接音から開始するよう説明していますが、「siのトリルを上(do)から演奏することで、do-si-doという元の形が不明確になってはならない。」(※52)とも述べています。

次に5小節目のモルデント記号は下方隣接音に1回から複数回下行した後に主音へ戻る装飾音です。モルデントとして、バッハ直筆の装飾音表どおり下方隣接音に1回下行した後に主音へ戻るよう奏したいと思います。

6小節目のトリル記号は、跳躍進行の後の音符に付いていることとカデンツの部分であることから、バッハ直筆の装飾音表の1番目のとおりに上方隣接音から開始するトリルでよいと思います。

8小節目のトリル記号は、下行2度であらわれていますのでプラルトリラーでもよいと思いますが、フレーズの終わりの部分ですのでバッハ直筆の装飾音表の1番目のとおりに上方隣接音から開始するトリルで奏したいと思います。

13小節目のモルデント記号は5小節目と同じようにバッハ直筆の装飾音表どおり、下方隣接音に1回下行した後に主音へ戻るモルデントとして奏したいと思います。

14小節目のトリル記号は、下行2度であらわれてさらに次の音へ順次進行で下行していますが、カデンツの部分ですのでバッハ直筆の装飾音表の1番目のとおりに上方隣接音から開始するトリルで奏したいと思います。

次に記譜されていない箇所に装飾音を付ける場合について考えたいと思います。バドゥーラ=スコダは、カデンツ(終止形)について「たとえ装飾記号が書かれていなくても、装飾音を付加すべき場所には追加しなければなりません。そのひとつはすでに述べた通り、終止形における最後から2番目のブロック(ドミナンテ)です。ここにある音符には音楽の流れに従ってトリル、プラルトリラー、まれにはモルデントが補われなければなりません。」(※53)と述べ、また、主題の反復について「どのような作品でも、主題が繰り返し現れる場合、当初その主題に加えられた装飾はその後も―演奏可能な限り―同じように奏されるべき」(※54)と述べています。カール・フィリップ・エマヌエルは「模倣はすべて、ごく細部にいたるまで正確におこなわなければならない。」(※55)と指摘しています。また、バドゥーラ=スコダは繰り返し部分で最初は単純に、繰り返しの時に装飾を加えて奏する例として「組曲のサラバンド」「平均律クラヴィーア曲集第2巻のプレリュード第9番 BWV878」「パルティータ第1番のメヌエットII BWV825」をあげています。(※56)

それでは、終止形・主題の反復(模倣)・繰り返し部分に着目して、装飾音を付加していく箇所を見ていきたいと思います。まず、下声7小節目、8小節目にあらわれるB動機については、1小節目、2小節目のB動機の模倣ですので、同様にトリル記号(主音開始のプラルトリラー)を付けることができると思います。上声7小節~8小節目のA動機の最後の音にトリル記号が付けられていることから、8小節~10小節目にあらわれるA動機、A動機の反行は、7小節~8小節目のA動機を模倣して装飾音を付加したいと思います。8小節~9小節目のA動機の最後の音は前の音から上行していますのでモルデント記号(下方隣接音に1回下行した後に主音へ戻るモルデント)を、9小節~10小節目のA動機の反行の最後の音は前の音から下行していますのでトリル記号(フレーズの終わりの部分ですので上方隣接音から開始するトリル)の付加がよいと思います。第2の部分(7小節~14小節)は、主題の反復(模倣)において記譜されていない箇所に装飾音を付ける場合になっています。上声の20小節4拍目はカデンツに装飾音が記譜されていない箇所なので、ミの音にトリル記号(上方隣接音から開始するトリル)を付加したいと思います。「ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハのためのクラヴィーア小曲集」では、この部分にトリル記号が付けられています。(※57)

インヴェンション第1番の装飾音について考察してみましたが、あくまでいろいろな解釈の中の私の考える1つの例であり、絶対ではないことを付け加えておきたいと思います。

※19、東川清一.「フランスの音楽」.角倉一朗監修.『バッハ事典』.音楽之友社,1993,p.421-423.によると、シャルル・デュパールの「6つのクラヴサン曲集」は1709/1712年ころ、ニコラ・ド・グリニーの「オルガン曲集」は1709-1712年ころ、ジャン・アンリ・ダングルベールの「クラヴサン曲集」の中の装飾音表は1710-1712年ころ、の筆写しであろうと言われています。
※20、樋口隆一.「イタリアの音楽」.角倉一朗監修.『バッハ事典』.音楽之友社,1993,p.31-33.
東川清一.「フランスの音楽」.角倉一朗監修.『バッハ事典』.音楽之友社,1993,p.421-423.
※21、ヨハン・ヨアヒム・クヴァンツ.『フルート奏法』.荒川恒子訳.全音楽譜出版社,1976,p.300.
※22、パウル・バドゥーラ=スコダ.『バッハ 演奏法と解釈―ピアニストのためのバッハ』.今井顕監訳.全音楽譜出版社,2008,p.337.
※23、Couperin, François. Pièces de Clavecin Premier Livre. Paris, 1713, p.74.
※24、Rameau, Jean-Philippe. Pièces de Clavessin avec une Méthode pour la Méchanique des Doigts. Paris, 1724.
※25、フランソワ・クープラン.『クラヴサン奏法』.山田貢訳.シンフォニア,1978,p.14.
※26、フランソワ・クープラン.『クラヴサン奏法』.山田貢訳.シンフォニア,1978,p.14.
※27、パウル・バドゥーラ=スコダ.『バッハ 演奏法と解釈―ピアニストのためのバッハ』.今井顕監訳.全音楽譜出版社,2008,p.338.
※28、パウル・バドゥーラ=スコダ.『バッハ 演奏法と解釈―ピアニストのためのバッハ』.今井顕監訳.全音楽譜出版社,2008,p.330-331,p.336-337.
※29、村上隆.『バッハ《インヴェンションとシンフォニア》創造的指導法』.音楽之友社,2011,p.70.
※30、ヨハン・ヨアヒム・クヴァンツ.『フルート奏法』.荒川恒子訳.全音楽譜出版社,1976,p.312-313.
※31、パウル・バドゥーラ=スコダ.『バッハ 演奏法と解釈―ピアニストのためのバッハ』.今井顕監訳.全音楽譜出版社,2008,p.354-355.
※32、ヨハン・ヨアヒム・クヴァンツ.『フルート奏法』.荒川恒子訳.全音楽譜出版社,1976,p.88-89.
※33、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ.『正しいクラヴィーア奏法 第1部』.東川清一訳.全音楽譜出版社,2000,p.104-122.
※34、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ.『正しいクラヴィーア奏法 第1部』.東川清一訳.全音楽譜出版社,2000,p.121.
※35、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ.『正しいクラヴィーア奏法 第1部』.東川清一訳.全音楽譜出版社,2000,p.121.
※36、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ.『正しいクラヴィーア奏法 第1部』.東川清一訳.全音楽譜出版社,2000,p.164-165.
※37、ヨハン・ヨアヒム・クヴァンツ.『フルート奏法』.荒川恒子訳.全音楽譜出版社,1976,p.84,p.141.
※38、パウル・バドゥーラ=スコダ.『バッハ 演奏法と解釈―ピアニストのためのバッハ』.今井顕監訳.全音楽譜出版社,2008,p.380.
※39、パウル・バドゥーラ=スコダ.『バッハ 演奏法と解釈―ピアニストのためのバッハ』.今井顕監訳.全音楽譜出版社,2008,p.314-315,p.326-327,p.354.
※40、D'Anglebert, Jean-Henri. Pièces de Clavecin. Paris, 1689.
Couperin, François. Pièces de Clavecin Premier Livre. Paris, 1713, p.74-75.
Rameau, Jean-Philippe. Pièces de Clavessin avec une Méthode pour la Méchanique des Doigts. Paris, 1724.
※41、ヨハン・ヨアヒム・クヴァンツ.『フルート奏法』.荒川恒子訳.全音楽譜出版社,1976,p.84.
カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ.『正しいクラヴィーア奏法 第1部』.東川清一訳.全音楽譜出版社,2000,p.144.
※42、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ.『正しいクラヴィーア奏法 第1部』.東川清一訳.全音楽譜出版社,2000,p.145.
※43、パウル・バドゥーラ=スコダ.『バッハ 演奏法と解釈―ピアニストのためのバッハ』.今井顕監訳.全音楽譜出版社,2008,p.326.
森田学.『音楽用語のイタリア語』.改訂新版.三修社,2011,p.115.
※44、Carcassi, Matteo. Méthode complète pour la Guitare Op.59. Mainz, B. Schott's Söhne, 1836, p.45.
溝渕浩五郎編著.『カルカッシギター教則本』.改訂新版.全音楽譜出版社,1999,p.66.
原善伸監修,上谷直子訳.「カルカッシ完全ギター教則本Op.59」.『現代ギター』.2019年3月臨時増刊号,No.666,p.61.
小原安正監修.『教室用 新ギター教本』.ギタルラ社,1977,p.49.
※45、パウル・バドゥーラ=スコダ.『バッハ 演奏法と解釈―ピアニストのためのバッハ』.今井顕監訳.全音楽譜出版社,2008,p.312-313.
※46、パウル・バドゥーラ=スコダ.『バッハ 演奏法と解釈―ピアニストのためのバッハ』.今井顕監訳.全音楽譜出版社,2008,p.314.
※47、パウル・バドゥーラ=スコダ.『バッハ 演奏法と解釈―ピアニストのためのバッハ』.今井顕監訳.全音楽譜出版社,2008,p.314.
※48、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ.『正しいクラヴィーア奏法 第1部』.東川清一訳.全音楽譜出版社,2000,p.119.
※49、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ.『正しいクラヴィーア奏法 第1部』.東川清一訳.全音楽譜出版社,2000,p.120.
※50、パウル・バドゥーラ=スコダ.『バッハ 演奏法と解釈―ピアニストのためのバッハ』.今井顕監訳.全音楽譜出版社,2008,p.426.
※51、村上隆.『バッハ《インヴェンションとシンフォニア》創造的指導法』.音楽之友社,2011,p.82-83.
※52、J. S. バッハ.『インベンションとシンフォニア 解説付』.New Edition.野平一郎解説・運指.音楽之友社,2014,p.7.
※53、パウル・バドゥーラ=スコダ.『バッハ 演奏法と解釈―ピアニストのためのバッハ』.今井顕監訳.全音楽譜出版社,2008,p.589.
※54、パウル・バドゥーラ=スコダ.『バッハ 演奏法と解釈―ピアニストのためのバッハ』.今井顕監訳.全音楽譜出版社,2008,p.590.
※55、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ.『正しいクラヴィーア奏法 第1部』.東川清一訳.全音楽譜出版社,2000,p.88.
※56、パウル・バドゥーラ=スコダ.『バッハ 演奏法と解釈―ピアニストのためのバッハ』.今井顕監訳.全音楽譜出版社,2008,p.587,p.592~595,p.596.
※57、Bach, Johann Sebastian. Clavier Büchlein vor Wilhelm Friedemann Bach. Köthen, 1720.


次は「ギターでの表現について」

   
《Web Design:Template-Party》